PART 7 やっぱり文法って必要?
さて、今回が一応、このシリーズの最後です。最後なので今日は思いっきり大暴論かまします。
私は語学習得に文法は不要という大暴論を掲げている人間です。(暴論その1)
理由は単純。ネイティヴは文法を(少なくとも初期段階で)学習することなしに言語を習得しているからです。それにネイティヴほど文法に疎かったりします。ネイティヴの例とするなら、日本語が一番わかりますね。
「駅の近くに本屋があります」というフレーズ。
これは(1)「本屋が駅の近くにあります」とは語順を変えることができますが、
(2)「近くに駅の本屋があります」といえば意味が変わりますし、
(3)「本屋が近くに駅のあります」だとまったく意味を成しません。
ではなぜ(1)の並べ替えはよくて(2)、(3)はだめかきちんと文法的に即答できますか?こういう質問について、たいていの日本人は「そういうのが自然だから」とか「そんなものだから」という説明しかできないのではないでしょうか。
もちろん、語学習得も中級レベルまできて、さらにきれいな言葉で話したいと思うのであれば、文法を勉強しなければいけないのはわかりますけどね。
ただ、それは私のいうところの「ツールとしての外国語」という範疇から離れています。
初期段階では文法をベースにするより、パターンを覚えるほうが早いように感じます。フランス語で簡単な例を挙げましょう。英語のbe動詞にあたるetre動詞の直説法現在形の活用です。(アクセント記号省略)
Je suis (一人称単数)
Tu es (二人称単数)
Il est (三人称単数)
Nous sommes (一人称複数)
Vous etes (二人称複数)
Ils sont (三人称複数)
こういう活用表をにらめっこして覚えるよりも、Nous sommes a Paris.(我々はパリにいます) とか Il est President-dorecteur general (彼は社長です)とか Cette affair est interessante(その取引にはメリットがある)といったフレーズを覚えていくほうが実際的です。
ヨーロッパ、特にラテン語系言語の人称の変化は主語に対する語感を整える程度の意味しかないと思います。(暴論その2)
さらに女性名詞、男性名詞なども、語感の調整と思ってフレーズで覚えていけば、文法書をにらめっこする必要はないです。(暴論その3)
時制だって、現在・過去・未来を表す形容詞・名詞が付随すれば、活用は不要であることを中国語が証明しています。実際の会話などでは、動詞単独で時制を判断するケースはまれでかならず形容詞・名詞(昨日とか来週といった単語)が伴って表現されるのです。つまり時制における活用も語感の調整にすぎないのです。(暴論その4、暴論の大暴走はとどまることを知らない)
所詮言語は単語・フレーズのデータベース集積であり、ある一定の量の単語・フレーズをデータとして脳内にインプットしなければなりません。そのデータ間にある法則性(これを文法というのですが)をいくらインプットしても(短期間で)言葉を操れるようにはならないのではないかというのが、私が常々もっている疑問でもあります。
ということで尻切れトンボのようですが、とりあへず今回のシリーズはこのあたりで終わりとさせていただきます。
0 件のコメント:
コメントを投稿